第2280回例会

第2280回例会(2023年1月16日)

「会長年頭挨拶」
蓑輪 隆宏 会長

 
新年明けましておめでとうございます。
会員の皆様におかれましては新年をお健やかにお迎えられましたこと、心からお慶び申し上げます。

本日はこのホテルロイトン札幌様での第一回目の例会です。色々な局面がございましたが、会員皆様の建設的なご意見そしてご理解ご協力で何とかこの日を迎えられたこと本当に有難い限りです。また、この厳しい現下、本クラブ例会を受けて下さいました青山総支配人(本クラブ会員)には改めて、深く感謝し心からお礼申し上げます。
加えて、長らく続くコロナ、そして戦争まさかの事態の中、ご自身のお仕事とロータリー活動を両立されておられる会員の皆様にも心から敬意を払わせて頂きます。
当たり前ではない今の平和に感謝し、会長スローガンに則り頑張る所存です。残り半年どうぞ宜しくお願い致します。

 
 
 

年男の弁
「ロータリーの活性化 ― ヒューマニズムを取り込む試案について」
小林 博 会員

 
ロータリークラブは将来、どうあったらよいかということについて私なりの夢を少しお話させていただきたいと思います。

いままでのロータリー
 20年前の札幌北ロータリークラブの会員名簿を見てみました。在席59名。今も残っているのはわずか6名。つまりその間53名の方が退会されました。病気、転勤、高齢化などは止むを得ないものもありますが、「何となく」辞められた方々が少なくなかったように思います。

 ロータリーを辞められたある会員が私にこう言っておりました。「ロータリーで何が良かったかといえば、思いがけないいろいろな人との出会いがあったこと。これが一番! 終生の友人ともいえる人達との親しい関係を続けることが出来ました」というのでした。
 「何かまずいことはなかったか」と聞きますと、その人は率直に人との出会いのあったほかは「余りためになることはなかった。いくらか退屈になってきたかな」。「例会に出席するための時間、労力、お金のことを考えると少し負担にもなって必ずしも満足できなかった」ともいわれるのでした。
 またある人はロータリーを少しでも変えようと思って努力したが何も変わらない。空しいものを感じた、というより「失望した」といって退会されました。

 それではどうしたらよいか? 要は「退屈だ」「つまらない」というような批判に対しては、みんなの「ためになる」「退屈させない」クラブをつくればいいのだと思います。
 言っているだけでは始まりません。何か新しい具体案を出さなければなりません。

これからのロータリー
 本題に入ります。いままでのロータリーの奉仕活動は主に自分以外の人、つまり他人、あるいは他の組織を対象にしていたように思います。それはロータリーの基本理念ですから結構なことと思います。
 しかし、内なる自分に対しての人間性とかヒューマニズムへの関心が余りなかったように思います。このことについて本日は3つのことについて話させていただきます。

1)慈愛のこころ
 ある年輩のロータリアンが先日私に「今までで一番感動した会長テーマはいまから20年前のRI会長のビチャイ・ラタクルさんの『慈愛の種を播こう』であった」というのです。
 確かに「愛」の種を播くというような愛を語った会長はロータリーで初めてでしたので新鮮な印象を与えて下さいました。愛とは簡単にいえば人に対する「いたわりの心、やさしい心」のことです。
 ある別の先輩ロータリアンは「『いたわりの心』こそがロータリーの真髄ではないか」といっておられたことを思い出します。
ところが慈愛の種を播くのは簡単なようですが、実は大変なことなのです。この種を播くためには、まず「愛の種を播けるような人間にならなければならない」ということですから。厳しくいえば人間が少し変わらなければならないということでもあります。

 話は変わって、いつか私は北クラブの例会で「健康」と「お金」と「愛」の3つのうち、どれか1つだけしか取ることが出来ない極限の状況を考えたとき、どれを取りますか、という難しい質問をして、みなさんに考えていただいたことがありました。
 現実的に健康もお金も絶対になくてはならない大事なものです。文句なしです。しかし究極的には、たとえば自らの死を間近にした人の回答は健康ではありません。またお金でもありません。ただ1つやさしい愛の心でした。
 やさしい愛のこころなんて普段あまり気にしていないのですが、追い詰められて初めて気付くことかも知れません。それが愛というものです。つまり愛の心が人間にとってもっとも基本的なもので、もっとも大事であるように思うのであります。

2)感謝のこころ
 話は変わって、私は地下鉄によく乗りますが、地下鉄の乗り降りに不便をされる車いすの方がおられます。そういった方は予め連絡を受けた駅員が大きな板をもって待っていて、乗り降りに支障がないようにお手伝いをしてくれます。そのとき私は車いすの方から「ありがとう」という言葉を聞いたことがまずありません。なぜでしょうか? 自分は身障者だからみんながお手伝いするのは当たり前と思っているのでしょうか。あるいは日本人は押しなべて「ありがとう」を言う習慣がないからなのでしょうか。
 考えさせられました。私達自身が人に対し感謝の「ありがとう」の言葉をどれだけ言っているか、あるいはつい忘れていることはないかと気になってきたのです。
 私達は生まれてから親に育てられ、いま満足な生活を送っていることを当たり前のことと思っています。しかし考えてみますと、私達はどれだけ多くの人様のお世話になってきたか、そういったすべての人に対する感謝の「ありがとう」の言葉を決して忘れてはいけないと思います。「心のなかで思っているからいいではないか」ではいけません。相手の方にはっきりわかるように表現しなければなりません。
 私達は海外にもいろいろな奉仕活動をしてきました。相手の方の喜ぶ姿を見るときに、彼らが喜ぶ以上についこちらも非常に大きな喜びを感じます。ですから当然「奉仕させていただけること」の喜びに対しても、やはり「ありがとう」の言葉があるべきかと思うのであります。
 長い人生には幸せなこと、楽しいことばかりではありません。災難や試練もあり、これを自分だけに降りかかった災難、不運と考えがちです。しかしそうではありません。天なるものが与えてくれた試練をチャンスと受けとめたとき、ここにも感謝の「ありがとう」でしかありません。「ありがとう」と思って努力すれば、事はすべてうまくいくように思うのです。

3)家庭へのこころ
 もう1つだけ申し上げます。いままでのロータリーは外向けのことが多かったと最初にお話いたしました。
 たとえばロータリーの奉仕活動にしてもそうです。奉仕には職業奉仕、国際奉仕、社会奉仕があり、さらにクラブ奉仕があります。ところが、内向きのこと、例えばわが家の家庭、家族に対する奉仕というものはありませんでした。なぜでしょうか? 照れくさい、あるいは遠慮しているのでしょうか?
 ロータリーは「外面ばかり良くてね」という皮肉な言葉を何度か耳にしたことがありました。他人のことを考えるばかりに、身内のこと、あるいは身近なことがつい疎かになっていたのかも知れません。
 でも、この際わが身のこと、あるいは家庭のことに立ち戻って考えてみてもよいのではないでしょうか。
 以上のように考えますと、家庭奉仕こそが本来、すべてのロータリー活動の「出発点」、あるいは「原点」といってもいいのではないかとさえ思うのです。
 率直に申し上げ、ご自分の家庭を無視してまで他人へ奉仕することは「超我の奉仕」といって最高に理想的なものかも知れません。しかし、これはかなり自己犠牲的で大きな無理があるのでないかと思います。
 やはりご自分の家庭に十分な奉仕をしたあと、それから他人への奉仕であるべきと考えるのがむしろ自然体ではないかと私は考えます。

4)内向きの3つのこと
 以上の3つのこと。「慈愛の種を播く」「感謝のありがとうをいう」「家庭への奉仕」についてお話しました。
 少なくとも今日述べた3つのことをまとめますと、ロータリーは従来の「外」に対する奉仕だけではなく、「内」なるものに対する奉仕にもっと「大きな期待と責任、そして自信を持って」取り組んでいっていいのでないか、ということです。その根底にあるものは一言でいえばロータリーに「ヒューマニズム」の心を大胆に取り入れるということになります。
そんなことはロータリーの「目的」とか「定義」に書かれていないことだから、やる必要ないと受け止める人もいるかも知れません。書いていないからやってはいけないではなく、書いていなくてもやったらいいと思うことはやっていいことではないでしょうか。
 つまり「ロータリーは親睦と奉仕ではありますが、それだけの団体ではありません。ロータリーは人間性豊かなヒューマニティあふれるヒトを育てるところ」「人格形成の場でもあります」。「ロータリーにはそういうことを教えてくれる立派なロータリアンがたくさんおられます」といわれるようになったらいいのではないでしょうか。

 

おわりに
 以上、今日の話はやや抽象的でまだまだ具体的にどうしたらよいかということまでは申し上げておりません。とにかく、ただ私の申し上げたかったことはロータリーは「ヒューマニティ」とか、「人間性豊かなヒト」を育てることを新たな目標として加えていけば、ロータリーはもっともっと善くなっていく、あるいは「ためになる」ものになっていくのではないかと期待したいのであります。
 いままでのロータリーは枠にはまって少々固いイメージのものがあったかと思います。そういったことに捉われることなく、少しは自由に、各地区、各クラブに独自のものを作っていってよいではないかと思うわけであります。
 いずれにしても、みなさんと率直に意見交換を重ねながら、ロータリーを少しでも活性化したいと思い、その一案を紹介させていただきました。有難うございました。

 

質問
Q1.竹原巖 会員
 ごもっともなご指摘、有難うございました。そのなかでも私は「家庭奉仕」こそがもっとも大切なことではないかと考えております。クラブとして「家庭奉仕委員会」なるものを作ってみては如何かと敢えて提案させていただきます。

A1.
 地区でかつて家庭奉仕委員会を作ったことがありましたが、ロータリーの綱領にはないということでいつの間にかボツになってしまいました。私自身、現在老々介護の身ですが、家庭奉仕あってこそのロータリー活動だと思っております。

Q2.中園直樹 会員
 私は国内外、主に道外のいくつかのロータリークラブを見てきましたが、札幌北ロータリークラブは、そのなかでも大変よく出来たクラブだと思います。出来たら卓話の然るべき演者はもっと自由に前もって選択したらよいかも知れませんね。

A2.
 ごもっともです。必ずしも○○月間に捉われず、そのときみんながもっとも聞きたがっている人とテーマを早めに決めておくことも大切かと思います。