第2351回例会
第2351回例会(2024年12月16日)
「医療に国境はない」 阿部 弘 会員
卓話の機会をいただきありがとうございます。黑川会長より「いやというほど自慢話をして下さい」と言われたので、今回は自慢話をさせていただきます。(図1)
北大医学部を卒業してインターンを終えた私は、都留美都雄助教授が率いる北大医学部精神医学教室脳神経外科診療班へ入局しました。都留先生は6年間の米国留学の後に、米国の脳神経外科専門医の資格を日本人で初めて取得して帰国したが、北大での受入れ先がなく、精神神経科の諏訪望教授が精神科の中に”脳神経外科診療班”として都留先生を迎え入れたのであった。私は当初は精神科志望だったが、都留先生の脳の手術を見て、卒業間際に脳神経外科を志望する決心をした。(図2)
喜び勇んで入局した脳神経外科だったが、トレーニングは厳しかった。3日に1度の当直、次々と運ばれてくる救急患者の処置、昼夜を問わない緊急手術などで、眠る時間と食べる時間を確保するのに苦労した。
脳神経外科で扱う患者は、脳腫瘍、脳血管障害(くも膜下出血、脳出血、脳梗塞など)、及び脊髄疾患(脊髄腫瘍、血管奇形、外傷など)が三大疾患で、その他は先天奇形、頭部外傷等がある。(図3)
その後、釧路労災病院、米国留学などの後、1973年に私は助教授に就任した。1976年に私は自動車事故賠償対策機構の奨学金による4ヶ月の海外留学に出発した。
まずはチューリッヒ大学(スイス)脳神経外科のヤシャギル教授の脳動脈瘤の手術を見学した。世界一の噂どおりの華麗な手術であった。次いで、マウントサイナイ大学(米国)のマリス教授の脳腫瘍の手術を見学した。ともに3週間安宿に滞在して、月曜から金曜まで毎日手術室に居続けた。目からウロコが落ちる思いで、多くを学んだ。さらに、フロリダ大学のロートン教授、オハイオ州立大学のハント教授、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のウィルソン教授の手術も見学した。勿論、各大学の朝7時からの病棟回診や、カンファランスなども出席した。マウントサイナイ大学の時は、ニューヨークのYMCAに1泊9ドルで3週間滞在したが、部屋にはベッドが1つあるのみで、水道もトイレもなかった。(図4)
4ヶ月の留学から帰国した私は、”世界レベルに追いつこう!世界と勝負しよう”と決心し、教育、研究、臨床に脇目もふらずに熱中した。
1984年、都留教授が定年退職して、私が後任として教授に就任した。そして2000年に私が定年退職する迄の16年間に、29名の若手教室員を海外留学させた。総回診カンファランスを英語で行った。
やがて弟子達が成長して、脳腫瘍及び脳血管障害の手術では世界に負けないレベルに達したので、私は脊髄疾患の手術に専念するようになった。(図5)
脊髄の手術は、都留教授の時代から北大の業績は断然日本一であった。私は世界をリードするレベルにすべく奮闘した。以下、頸椎後縦靱帯骨化症、脊髄髄内腫瘍、頭蓋頸椎移行部病変の3疾患について述べる。
頸椎後縦靱帯骨化症は東洋人、とりわけ日本人に多い疾患(難病)である。脊椎の後縦靱帯が骨化して脊髄を圧迫し、放置すると四肢麻痺をおこす。従来は椎弓を分離させる後方除圧が行われてきたが、根治には至らなかった。頸椎の前方から到達して、椎体及び後縦靱帯を摘出する手術は、日本では数例行われていたが、出血や脊髄損傷が多く、中止されていた。私はこの前方除圧固定術を顕微鏡下で慎重に行えば、必ず成功すると確信して、助教授時代に開始した。結果は驚くほどの症状の改善が見られた。(図6)
わずか16例の結果の論文を、世界で最も権威あるJournal of Neurosurgeryへ投稿すると、直ちに採用されて、私の描いた論文中の図がジャーナルの表紙を飾った。(1981年7月号)(図7)
この報告は、世界で初めて行われた顕微鏡下の手術と認定された。その後は、世界各国の脳外科医及び整形外科医から頸椎後縦靱帯骨化症の患者が北大病院の私宛に送られて来た。
米国の脳外科医より送られたグアム島の患者(40才台)は、大きく肥っていて四肢麻痺のためにタクシーに乗れず、急遽、千歳の救急車で北大へ来た。3椎体を摘出する大手術だったが、術後は急速に手足の動きが回復し、10日後に車イスで退院した。1ヶ月後には歩行が可能になったとの連絡があった。(図8)
ニューヨークの整形外科医の紹介で入院した患者(50才台 IBM社員)は、歩行困難であったが、自力でタクシーで北大へ到着した。骨化巣は大きく、手術は長時間を要したが、無事終了した。患者は翌日から歩きだし、1週間後に抜糸した翌日にスタスタ歩いて退院した。(図9)
台湾大学の洪教授から依頼された患者(50才台)の手術のために私は助手1人を連れて手術器械を持参して台湾へ向かった。北大医学部事務へ台湾への出張届を提出すると、「貴君は国家公務員なので、台湾の政府の高官と接触してはならない…」という注意書が文部省から送られてきた。患者は台湾の国会議長で大物とのことであった。空港に着くと、私と助手は通常のゲートとは別のゲートで税関のチェックもなしに通過して、黒塗りの警備付きの車で台湾大学へ向かった。車の前と後ろに警備のオートバイがついて高速道路を走った。
台湾大学で、私は患者に手術前の説明をした。患者の周囲には数人の家族と数人の国会議員と洪教授と数人の脳神経外科医がとりまいていた。翌日の手術は朝9:00に始まり、夕刻の7時頃に終了した。骨化巣は大きく、硬膜と癒着していて摘出の際に硬膜及びくも膜が損傷して髄液が流出したために、それらの修復に手間をとった。しかしながら最後は硬膜及びくも膜の修復も終え、無事終了した。(図10)
手術室を出ると、報道陣のフラッシュを浴びた。私と助手は下を向きながら人をかき分けて脱出した。翌日、洪教授から患者の手術が成功したとのニュースがテレビで報道されたと知らされた。新聞にも掲載されていると新聞を見せられた。私は恐ろしくて新聞を見れなかった。これらの報道を文部省が知ったら、私はただではすまないと思った。術後の経過は順調で、患者の四肢麻痺はぐんぐん回復した。1ヶ月後には国会議長職に復帰し、70才後半まで議員を務めたとのことであった。
私と助手は術後3日目に帰国の途についたが、私は成田空港に着くのが怖かった。文部省の役人が私を尋問するのではないかと怖れたが、何事もなく入国できて安堵した。
やがて、ニューヨーク大学脳神経外科クーパー教授及びノースカロライナ大学バロー教授から要請されて、米国の脳神経外科医及び学生向けの教科書を作成中で、”頸椎後縦靱帯骨化症”の項を私に執筆してくれと依頼された。3ヶ月かけて何とか原稿を送って出版された。(図11)
脊髄腫瘍には硬膜腫瘍、硬膜内髄外腫瘍、脊髄髄内腫瘍の手術である。
髄内腫瘍の診断はMRI検査の前では非常に困難で、海外でも手術例の報告は少ない。MRIによる診断が普及し、顕微鏡下手術によって安全に腫瘍が摘出されるようになって初めて海外では1970〜1982年に、10数例〜80例の報告が見られた。
私は1986年に10例の手術例を日本脳神経外科コングレス総会(札幌)で、会長講演として発表したのが、日本で最初の報告である。その後、1999年に105例の報告をした。勿論、断トツの日本一の手術件数である。
髄内腫瘍の手術は図10の如くである。顕微鏡下にて直径13〜15mmの手指大の太さの脊髄に縦切開を加えて、脊髄組織を損傷しないように慎重に腫瘍を剥離して摘出する。(図12)
韓国のソウル大学脳神経外科チョイ教授より依頼されて、16才高校生男児の手術を行った。患者は重度の四肢麻痺で歩行不能であった。腫瘍は頸髄から一部は胸髄まで伸展してしていたが、慎重に剥離して全摘出できた。16cmの太い腫瘍であった。(図13)
患者は、高校卒業後札幌の大学で勉強したいと言って、日本語を猛勉強して札幌大学に入学した。手指の動きがやや不自由ではあったが、下肢はほとんど正常に戻った。私は、大学と親から保証人となることを依頼され、喜んで引き受けた。入学の挨拶に北大を訪れた時の様子が道新に掲載された。(図14)
私は入学式には出席できなかったが、卒業式には親代りに出席した。私の105例の髄内腫瘍手術例のうち、外国人は4人であった。
頭蓋頸椎移行部病変は、図5に示すように、骨奇形、外傷、リウマチによる脱臼、腫瘍などの病変が延髄脊髄移行部の前方に存在していて、後方からのアプローチでは到達できず、前方すなわち口腔内から到達する方法がある。
この手術は、視野が狭く、深い術野で操作が困難で、感染の危険性も高く、日本での報告は1990年まではなかった。私は1987〜1998年の間に、骨奇形、脱臼、腫瘍など合計42例の手術を行って発表した。勿論、日本最初の報告であり、最多の症例数である。
1992年、ブラジル サンパウロ大学脳神経外科オリベイラ教授の要請で、私は頭蓋底腫瘍の経口到達法を行うために手術器械をかついでブラジルへ飛んだ。腫瘍は大孔前縁に存在し、骨を破壊して、延髄脊髄移行部を圧迫していた。患者は26才男性であった。(図15)

腫瘍は延髄を圧迫し、複数の脳神経や血管と癒着していた。腫瘍の摘出は容易でなく、手術開始後6時間経過した時点でまだ½の摘出だった。私はこれ以上の摘出は困難と判断して手術を終えた。持参した手術器械も不十分だった。
1ヶ月後、患者に北大病院へ来てもらった。器械もスタッフも十分であった。術後の患者の回復は順調で、10日後に退院した。(図16,17)
図18、及び19は、世界で1〜2位を競う脳神経外科医達との交流の写真である。会場で、ディナーの席で、札幌で等々で撮影された。私は彼等と親交を深めながら多くを学び、彼等に負けないようにと努力した。今でも海外の一流脳外科医20数人とXmasカードをやりとりしている。
図20、本田宗一郎の”世界一でなければ日本一にはなれない”という言葉は私を支えてきたバックボーンであった。

(卓話も原稿も規定を大きく越えたことをお詫びします。 阿部 弘)