第2289回

第2289回例会(2023年4月10日)

「新琴似屯田初代中隊長 -会津藩 進撃隊-三澤毅の生涯」
会津藩士子孫会会員 屯田四世
三澤 英一 様

 
毅の少年~青年時代
 曾祖父与八(のちに毅と改名)は、弘化元年(1844)、現在の新潟県魚沼市の小出島の代官であった三澤牧右衛門の長男として鶴ヶ城下で生まれました。10才の時に、藩校日新館に入学。礼法、書学、武術などを学び、17才で講釈所(大学)に入学、什長も仰せつかりました。“什”とは、同じ町内に住む藩士の子供たち10人前後の集まりで、毎日順番に什のいずれかの家に集まり、「掟」に背いた者がいないか反省会を行いました。「一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ 一、嘘言を言うことはなりませぬ 一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ・・・」7つの掟を皆で唱和、最後に「ならぬことはならぬものです」で締めくくりました。掟に背いた者には何らかの罰が与えられました。
 慶応元年、21才の時、与八は藩命により江戸の林塾(昌平黌)に修学。慶応三年、修学を免除され帰省、日新館の素読所(小学校に相当)に勤務しました。慶応四年、上州梁田に戦乱発生のため、南方探索を命じられ、同年4月、宇都宮城に入ります。宇都宮戦では大鳥圭介を総督、新撰組土方歳三を参謀とする伝習隊の差図役頭取として日光口に布陣。西軍の日光口からの侵入を断念させるも宇都宮城の戦いで敗退。会津に逃れました。
 旧幕府派の重鎮と見なされていた会津藩主松平容保を敵視する西軍(薩長土肥)は、同年8月22日、藩境の母成峠から十六橋を突破、同月23日に城下に攻め込みます。四方を西軍に取り囲まれた会津藩は城に立て籠もりますが、籠城戦では進展なしとみた会津藩は城外に打って出ることとし、翌24日、小室金吾左衛門を隊長とする「進撃隊」を結成。28日、甲長を拝命した与八は、隊長小室金吾左衛門とともに藩主容保公にお暇乞いのお目見えをし、杯を賜りました。29日、照姫様(容保公の義姉)のお見送りを受け、長命寺の戦いに出陣します。長命寺の戦いは会津戦争で最激戦と言われ、進撃隊で5人いた幹部の中で生き残ったのは与八ただ一人でした(隊旗は長年我家に伝わっていましたが10年ほど前に若松城天守閣郷土博物館に寄贈しました)。その後、与八は城に戻らず各地で奮戦。明治元年(慶応四年)9月23日の会津藩降伏後、現在の新潟県高田市の高安寺で1年半余り謹慎生活を過ごします。

斗南移住~琴似屯田入植まで
 一方、朝敵・賊軍の汚名を着せられた会津藩は本州最北端の斗南に移封処分となります。謹慎の解けた与八は、明治三年9月、父、母、妻、妹、弟で斗南に移住。大畑村大安寺に一家6人で寄寓しました。新領地の斗南は三万石とされましたが、土地が痩せ、寒冷不順な気候のため、ろくに作物がとれず、実質7千石足らずの不毛の地でした。会津23万石にくらべれば10分の1以下の収入で、次々と老若が荒野に息絶え、与八の父、牧右衛門も亡くなります。移封とは名ばかりの体のよい挙藩流罪でした。
 青森県職員(明治四年、廃藩置県で斗南藩は青森県と改称)として働いていた与八は名を毅と改め、明治八年屯田兵に応募、母、妻、妹、弟、子の6人で、琴似に入植します。
なお、妹豊の子の大島流人は、歌人石川啄木と親交があり、“一握の砂”で啄木は流人を「とるに足らぬ男と思へというごとく山に入りに神のごとき友」と詠んでいます。

西南の役~新琴似の開拓まで
 明治十年、西南の役が勃発。毅は永山武四郎少佐らに率いられて九州に遠征。かつて官軍として会津に攻め込んだ薩摩の西郷軍と戦います。曹長として出撃した毅は、別動第二旅団に所属して活躍。それが評価され、琴似に凱旋したときに少尉に昇進しました。明治一六年、屯田事務局(本部)に勤務していた毅は、新琴似・篠路地区が開拓可能か調査を命じられました。中尉に昇進していた毅は、泥炭湿地帯であったこの地区に排水溝を設け、排水すれば農地改良ができると報告、明治十九年に排水溝工事が始まります。これが今の「新川」です。新川は、主に樺戸監獄の囚人達が堀削あたり、「囚人堀」とよばれました。囚人の中には西南戦争で敗れた西郷軍の幹部や自由民権運動の指導者もいました。
 新琴似兵村は、現在の札幌市北区新琴似に拓かれた屯田兵村で、明治二十年と翌二十一年に、九州、四国、中国地区など8県から計220戸が入植、屯田第三中隊が編制され、大尉となっていた毅は初代中隊長として着任します。隊員に福岡、熊本、佐賀、大分の出身者が全体の85%もいたそうです。
 新琴似屯田ではなぜ九州出身者が多かったのでしょう。西南の役の前には「佐賀の乱」、「神風連の乱」、「秋月の乱」など九州各地で反乱が勃発。賊軍であった会津同様、第二の賊軍である九州の不平士族を合法的に厄介払いする意図もあったようです。
 会津降伏人であった毅と九州の困窮士族はともに厄介払いされた者同士でした。毅は入植者たちに次のように訓示したそうです。「君たちの故郷である南国の気候・風土はよく知っている。それに反して昨日、君たちが入植したこの未開地は北国の一大湿地帯であり、さぞ驚いているだろう。だが、これからの君たちの一鍬、一鍬によってこの大地は第二の故郷の礎となる。困苦に耐え団結して開拓して欲しい」。
 毅は病気のため短い在任で中隊長を退くことになりますが、この訓示で心を動かされた隊員たちは、毅を温情中隊長と慕い、一緒に開拓の鍬をふるうことになったのです。毅が新琴似開拓の祖とされる由縁もそこにあります。

(原文のまま掲載)