第2081回例会

第2081回例会 (2017年1月16日)

会長年頭あいさつ


出村知佳子 会長

 まずは、こうして会員皆様と揃って新年初の例会を迎えることができ大変嬉しく存じます。今年はアメリカ発の激動の年になると言われております。世界情勢も新たな局面を迎えるかと思いますが、河の流れも激流を乗り越えました後には、必ず良い流れになって行く事と思います。
 今年度も残り半年を切りましたが、毎日を大切に、一度一度の例会を大切に積み重ねて、会員皆様と共に良い年度を創り上げていければと思っております。今年も皆様の御協力をどうぞよろしく御願い致します。


~年男の弁~


加藤 聡志 会員

新年明けましておめでとうございます。今年は酉年ですが、私自身年男の為、今年一年間精進していろいろな事に邁進していきたいと思っております。
 ここで私の酉年の性格を一部ご紹介させていただきたいと思います。
 『この生れ(昭和44年)の人は、野鶏(やけい)といいます。自然のままに育つ鶏(にわとり)で、種類は家で飼われる鶏(にわとり)と同じですが、自由です。したがって食には不自由が多い。人に養われても、すぐに飛び出してしまいます。外出好きで、遊び廻る癖があり、家に落ち着いていられません。華美を好み、演芸など陽気なことが好きです。又、寂しがり屋で、ナイーブな一面を持つ人でもあります。』
 以上、今年一年間宜しくお願い致します。


竹原 巖 会員

あけましておめでとうございます。
 本年の会員皆様のご健康と北クラブの更なる発展をご祈念申し上げます。
 昨日までどのようなお話をしたらよいか迷っておりましたが、年男のスピーチということですから、やはり干支に関する話をするのがふさわしいと思います。そもそも干支とは何だ?ということから考えてみたいと思います。
12年前の2005年にも年男、ちょうど還暦を迎えた年に調べ「年男」のスピーチをさせていただきました。その時に調べた干支について、皆さんのお手元に配布しました資料を見ていただきたいと思います。干支とは十干と十二支の組み合わせでできております。
 私の生まれたのは十干の中の4番目の「丁(ひのと)」で、十二支では10番目の「酉(とり)」に当たりますので、正確に言いますと「丁(ひのと)」の「酉(とり)年生まれということになります。1945年3月31日生まれですので、事故等に巻き込まれないで、順調にいけば3月31日に満72歳の誕生日を迎えることになります。
生まれた頃の時代背景は、日本は戦争のさなかで、3月10日に東京大空襲があり10万人もの都民が犠牲となり、その後も日本各地にアメリカのB29が空襲を続け、4月1日には沖縄に連合軍が上陸を開始し軍人、住民を含め19万人の人たちが尊い命を失っております。
 私の生まれたところは赤平というところで炭鉱が産業の中心の町です。戦前から戦後の高度成長期に、北海道には夕張、美唄、三笠、砂川、赤平、芦別など空知地方を中心に炭鉱の全盛期でしたが、昭和38年をピークにエネルギー革命により石油や海外からのコストの安い輸入炭によって次々と炭鉱が閉山となっていきました。私が物心ついたころには少なくなりましたが、戦前の1939年(昭和14年)ごろから、北海道全体で中国人が13,674人、朝鮮人が14万5千人、炭鉱の労働力として集められ、赤平にも中国人1,000人超、朝鮮人が5,367人いたと記録されております。兄や姉の話によると、中国や朝鮮の人たちは腰をロープにつながれ、過酷な採炭作業に連れて行かれるのを何度も見かけたそうです。このような強制連行は炭坑にとどまらず、ダム建設の現場や鉄道建設の現場など、日本国内いたるところで行われたと記録されております。また、母方の叔父から私が直接聞いた話ですが、兵役徴収により中国の戦地にいた折り、罪のない村人を「度胸試し」と称する上官からの命令によって、日本刀で切り殺したという話も聞かされました。戦争の酷さ、惨劇、強制労働という歴史的事実を私たちは忘れてはいけないと思っております。炭鉱の町で生まれましたが、父親は直接炭鉱で働いていなく、炭鉱での採掘に使うピックなど機械部品などを鉄で作る仕事をしておりました。祖父も父親の兄も、そして私の兄も鉄にかかわる仕事でしたので、代々鉄に縁のある家系だと思っております。今の仕事(皆さんの貴重な財産であり生活と安全を守る建物の骨組みとなる躯体を鉄骨といわれる鉄で作っている)も天職と感じております。
 父親は人種的な差別意識のない人で、戦中や戦後日本に残っていた朝鮮や中国の人たちとも交流があり、よく家に出入りしていたようです。兄や姉は嫌がっておりましたけれど、戦後、中国の人が作った「饅頭」と呼ばれるパンや朝鮮の人が作った「キムチ」の差し入れがあったことを記憶し、列車で知り合いになった身寄りのない人や職のない人たちを家に連れて来て、就職を世話したり結婚させたりして面倒を見ていたのを覚えております。
 私の生まれた1945年(昭和20年)は1月1日が月曜日に当たりますので、3月31日は土曜日となります。同じ3月生まれには3月13日生まれの吉永小百合さん、3月14日生まれの栗原小巻さん、3月27日生まれの宮本信子さんなどがいます。
 私共の業界紙2社から「年男インタビュー」があり、肉体的には視力や聴力などの低下による衰えを感じますが、精神年齢はまだ50代もしくは40代のつもりだと話しました。しかし、「年男インタビユー」や「年男のスピーチ」の依頼をされる現実に向き合いますと、実年齢を自覚し、残された自分の人生に対して、どう向き合っていくべきかを真剣に考えるべきと思っています。
 近くの目標は1968年に兄と創業した私共の会社が、来年の3月に創立50周年を迎えます。その節目の時に社長職を退き、しっかりとした経営状態の中で後進にバトンタッチすることを考えております。それに伴い、業界の各役職からも解放され、自分のための自由な時間を作りたいと計画しております。自由な時間を何に使うかは色々と計画中でありますが、その一つに世界遺産巡りなどを考えております。
 先の長い目標の一つとしては、「年男の弁」を12年後の2029年・84歳はもちろんのこと、48年後の2065年・120歳のダブル還暦にもこの場でスピーチ出来るよう頑張ることです。しかし、家の奥さんに言われることですが、「長生きするといっていたのに、意外と早かったネ!と言われないよう、老化防止の運動をやりなさい」というアドバイスも聞き入れようと思っているところです。
 今年一年、仲良くお付き合いくださいますようお願いして、私の年男のスピーチといたします。